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滕池(ちきりいけ)神社 広島県大竹市木野(この) (2002/11/23) 銀杏の木すぐ右に鳥居が見える。神殿はこの奥すぐ。 |
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神殿 広島県大竹市木野(この) (2002/11/23) 出かけた時間が悪く、逆光で水らいが、神殿に向かって右側の台座に汐湧石が組み込まれるように座している。 |
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霊石「汐湧石」 広島県大竹市木野(この) (2002/11/23) 神殿の横にある汐湧石。神社の説明文(大竹市歴史研究会)には「旧6月17日の厳島管絃祭の夜にはこの岩穴から汐水が湧き出る」(文政2年(1819)の國郡誌)とある。 |
滕池(ちきりいけ)神社の創立由来 |
大竹市木野2丁目の町はずれに私たちが「ちきりさんと呼んでいるちきり池神社」が鎮座されている。言い伝えによると推古天皇の御世(592〜629)に厳島神(宗像三神の内市杵嶋姫)が九州の筑紫の國からかるばると二歳の嬰児を連れて中國へのぼってこられたという。道に迷われたのだろうか上木野のこの急な坂に差し掛かり、長旅の疲れがどっと出てきて「えらや苦しやこの苦の坂は金のちきりも要らぬもの」とつぶやかれそれまで大切に持ってこられたちきりを坂の上から投げ捨てられた。ちきりは崖を転がって麓の池にはまり込んだものと思われる。それ以来人々は、この小方に越える木野坂を「苦の坂」と呼び麓の池を「ちきり池」と呼ぶようになったという。 木野の地においてもその後ちきり池を埋めてその上に社を建て市杵嶋姫を祭神として「ちきり池神社」と名付けた。御神体に池に埋まったちきりを祭ったという。いつの頃からか神殿の横に汐湧石の霊石が座り「旧6月17日の厳島管絃祭の夜にはこの岩穴から汐水が湧き出る」と(文政2年(1819)発行の國郡誌に記録されている。 |
大竹市歴史研究会 |
責任者 畠中 ?朧
長門 彰男記 |